佐賀の役後,佐賀県は三潴県(旧柳川,久留米,三池藩)に合併され,その後長崎県に編入されるなど紆余曲折を経たが,明治16年に長崎県と分かれて再び設置された。この佐賀県から司法界で活躍する多くの人材が輩出されたのである。
江藤,大木以後,判事からは波多野敬直が,検事からは松田正久がそれぞれ司法大臣に任じられ,また,大木喬任の子息大木遠吉も親子二代の司法大臣となり,明治から大正にかけては期間にしてその半分近くは佐賀出身者が司法大臣に就任していた。
また,法曹界にも多くの人材を輩出し,裁判官には後に司法大臣になった波多野敬直をはじめ,古賀廉造,鶴丈一郎,掛下重次郎,池田寅二郎の各大審院判事等がおり,特に,池田寅二郎は大審院長として活躍し,その同時期には佐賀出身の光行次郎が検事総長に就いており,大審院長と検事総長の2つのポストが佐賀出身者で占められていた。
また,検事にも戦前「検察の神様」と言われた大阪控訴院検事長の小林芳郎や岩松玄十など検察を代表する人物を生んでいる。
戦後の法曹界にあっては,田中耕太郎最高裁判所長官や本村善太郎,江里口清雄の各最高裁判所判事,司法研修所の相島六原則で有名な相島一之元名古屋高裁長官,小野謙次郎元札幌高裁長官等がおり,終戦直後の食糧難の時代に裁判官として闇米に手を出さずに栄養失調で餓死した,あの有名な山口良忠判事もまた佐賀県出身である。検察の分野でも,藤原末作元大阪高検検事長,柳川眞文元大阪高検検事長,勝田成治元札幌高検検事長,中村哲夫元仙台高検検事長,蒲原大輔元札幌高検検事長,平田胤明仙台高検検事長など多くの人材を輩出している。
実務者だけでなく法学者も佐賀から多く出ており,その中でも行政法学者の織田萬,労働法の石井照久,特許法の光石士郎等有名である。
このように,明治維新後佐賀から司法界に多くの人材を輩出したのはなぜであろうか。一説には,佐賀県人の気質が社交性に乏しいが,正義感が強く,筋を通す剛直な一徹者が多く,理非曲直を正す司法官の職に適していたためではないかと言われている。