元釧路地方検察庁検事正森山英一氏による寄稿文を紹介します。
(初出「研修」平成6年10月号)
釧路地検の今昔
森 山 英 一
明治の草創期
釧路地検の発足は,明治15年6月開拓使が廃止されて函館,札幌,根室の三県が設置されたことに伴い,根室始審裁判所が設置され,従来の開拓使根室支庁刑法課が取り扱っていた刑事裁判事務を引き継いだことに始まる。管内には,根室,厚岸両治安裁判所が置かれた。しかし検事は当初は配置されず,開拓使警部であった伊藤弘が検事補に任命され検事代理として勤務していた。この人は福島県士族で,旧会津藩士であったようである。根室始審裁判所は根室・釧路・千島三国と北見国の西部四郡という広大な管轄地域を有していたが,当時の人口は1万2,000人に過ぎなかった。管内の警察署も根室,厚岸両署のみであったが,交通は極めて不便で厚岸から根室まで陸路で2泊3日を要する有様であり,翌16年2月15日には厚岸警察署の巡査が囚人1名を根室の裁判所に護送する途中猛吹雪に遭遇し囚人と共に凍死するという悲劇も起こっている。刑事事件の発生は少なく明治17年には312件に過ぎず,殺人強盗は0,窃盗被害72戸,詐欺等被害16人という状況であった。
明治19年に道内の三県は廃止されて北海道庁が設置された。明治23年裁判所構成法の施行により,始審裁判所は地方裁判所に,治安裁判所は区裁判所に改められ,それぞれ検事局が付置され,新たに釧路区裁判所が設置され,明治25年に開庁した。地方裁判所検事局の長として検事正が置かれたが,初代の検事正立木頼三は旧名古屋藩士で,法制局等で商法等の立法に関与したのち広島控訴院検事を経て着任した。
北海道の開拓には監獄の存在を忘れることができない。特に網走,帯広両市は監獄の設置により発展し,明治33年には区裁判所が設置され,網走区裁は翌34年,帯広区裁は明治35年に開庁した。また,漁場や港町として発展していた釧路には明治38年に釧路支部が置かれている。
明治期の事件と世相
一方,明治20年代以降の開拓の発展とともに賭博が流行し博徒の勢力が急速に増大して抗争事件も起こった。明治35年そのころ十勝川河口の港町として繁栄していた大津村(現豊頃町)において発生した大津事件は,一丁一家系の男を警察が浮浪罪等で逮捕し,根室の検事局に送致する途中,敵対する㋲派が大津分署を襲撃してこの被疑者を署内で刺殺したもので検事局創設以来の重大事件であった。当時の検事は捜査に消極的で,この事件でも予審請求をしたのみであったが,組織犯罪を予審で捜査することは困難であって,㋲派の大親分らは予審免訴になり,23名が公判に付され,根室地裁において中村俊太郎検事立会で審理の上2名に死刑,11名に無期徒刑,3名に15年の有期徒刑,7名は無罪の判決があったが,死刑の2名は後に控訴審等で減刑されている。
明治時代の検事正の中で異色の人物は第7代の佐倉強哉である。戊辰戦争のとき佐倉が仕えていた二本松藩は新政府に敵対したため,官軍の急襲を受け老人や少年まで動員して防戦したが敗れて,悲壮な落城を遂げ佐倉の祖父も戦死した。18歳だった佐倉は九死に一生を得た。佐倉の娘婿となった作家の榊山潤は後に佐倉の回想をもとにして小説「歴史」を書いたが,小説の中で佐倉は主人公の片倉新一郎として登場している。「歴史」は昭和14年に佐倉が没して百余日ののち新潮賞を受賞し,映画にもなった。佐倉は廃藩後上京して邏卒になり,西南戦争には警部補として出征した。戦後免職となり,横浜裁判所の書記からやり直して判事補になり,明治19年の判事登用試験に合格して判事に任官し,更に検事に転じ甲府地裁検事正を経て明治38年から翌39年まで釧路で在任した。のち,盛岡地裁検事正に転じたが,同地では委託金費消罪で送致された歌人の石川啄木を取り調べて不起訴処分にしている。
佐倉検事正から不起訴処分にされた石川啄木は,明治41年に釧路新聞の記者となって釧路に来た。滞在は70数日に過ぎなかったが,二十六首の歌を残した。釧路は翌42年に釧路港修築予算案が国会を通過して待望の築港が行われるなど急速に発展していたが,明治44年に刑事を装った男が漁師の妻(当時31歳)に夫の代わりに漁業鑑札の税金と称する5円70銭を持参して同行しろと命じ,同女を伴って幣舞橋南詰めの坂を登り測候所裏の空き地に連れ込み強姦した上,紐で頸を絞め更にナイフで胸を刺して殺害し,所持の現金を奪うという凶悪な殺人事件が発生し市民を恐れさせた。犯人は理髪職の男で,根室地裁の公判に付せられ死刑の判決が下された。被害者は美人だったといわれるが,人々はその死を哀れんで,現場近くの坂を被害者の名に因んでオサヨの坂または地獄坂と呼んだが,大正2年に釧路中学校が開校し前途有望な少年達がこの坂を通って登校するようになると出世坂と呼ばれるようになり事件のことは忘れられた。
かつての出世坂
大正期から昭和初期の釧路地検
大正5年に根室地方裁判所は釧路区裁判所構内に移転して釧路地方裁判所と改称し,釧路支部は廃止されて新たに根室支部が置かれた。大正7年には網走支部が置かれ,また屯田兵により開拓が進んだ野付牛町(現北見市)には同年野付牛区裁判所が設置された。一方,厚岸区裁判所は大正2年に廃止され,江戸時代以来の歴史のある町に変わり新興の都市に司法の重点も移されていった。
受刑者の待遇は漸次改善されたが,苛酷な労働や長期の囚人が多いことからしばしば脱獄事件が起こった。中でも大正5年には網走監獄の無期徒刑囚ら5名が看守2名を刺殺し,1名に重傷を負わせて脱走を図ったが逮捕された。5名は釧路地裁で紺野源助検事関与により公判に付されたが,4名に死刑,1名に無期懲役の判決がなされている。その後,監獄の施設改善などにより脱獄は次第に減っていったが,昭和19年には度々の脱走により脱獄魔といわれた受刑者が網走刑務所から脱走し3年にわたって逃走するという事件が発生している。
大正末年になると,検事局の捜査力も次第に充実して,独自で捜査を行なうこともできるようになった。大正10年の網走警察署湧別分署長らの贈収賄等事件は,竹本正業検事正宛の長文の投書を端緒として網走支部の紺野源助検事が精力的な捜査を行ない,湧別分署長の警部ら警察官3名を含む17名を検挙し公判に付したもので,分署長は料理店の開業や屠殺の許可,違法漁業の黙認等に関して賄賂を収受したこと等により釧路地裁で懲役2年6月の実刑判決を受けた。また大正9年の北海道地方費森林野付牛事務所長らの贈収賄等事件は,やはり網走支部の紺野検事が森林窃盗事件の取調べの際に端緒を得て木材業者等による公有林の盗伐とこれを黙認させるための道庁林業職員に対する金品の贈賄と供応接待事犯を探知し,北海道地方費森林野付牛事務所長ら道職員6名を含む31人を検挙して公判に付したもので,釧路地裁で審理され29人が有罪になった。
しかしながら警察や検事の捜査能力も未だ十分ではなかった。昭和5年に池田町で発生した炭焼小屋での殺人・放火事件は,犯人が被害者から米を盗み,これを言い触らされたことを恨んで同人を村田銃で射殺し,犯行を隠すため放火した事案であったが,捜査が不十分であったため,予審で殺人・放火については自白は警察官の拷問によるものとして犯行を否認され予審免訴になり,窃盗事実のみで懲役6月の判決があった。しかし,被告人が控訴したことから,札幌控訴院で公判を担当した樫田忠美検事が記録を検討して再捜査を指揮し,釧路地裁検事局において当初の自供を裏付ける証拠を収集して再予審を請求した結果,殺人・放火事実も公判に付されて無期懲役の判決を得ることができた。
戦時中の著名事件
太平洋戦争中に起こった特異事件として知床半島の人肉食事件がある。昭和18年12月4日陸軍徴用船は船団を組んで根室港を出港し小樽に向かう途中猛吹雪で暗礁に乗り上げ船体が真二つになった。乗組員7名は厳寒の知床半島突端部に上陸したが,5名は飢餓と寒さのために次々に死亡し,29歳の船長と18歳の火夫の二人だけが無人の昆布小屋にたどり着いたが,火夫は翌年1月初めに死亡した。船長は小屋にあった出刃包丁で火夫の死体を料理して食べ,約1か月後,海岸を南下して羅臼村知円別の部落にたどりついた。船長は初め奇跡の神兵として称賛されたが,羅臼巡査派出所の警察官は船長が乗組員を殺害してその人肉を食して生き延びていたのではないかと疑い,2回にわたり昆布小屋の実地見分を行ったところ床に多量の血痕と近くに漂着したリンゴ箱の中から衣服に包まれた若い男性の骨や剥ぎ取られた表皮等を発見した。事件は標津警察署長から八木滝二郎検事正に報告され,小保方佐市検事が予審判事と共に現場の検証を行ない船長を殺人,死体損壊・同遺棄罪で逮捕したが,船長は火夫殺害の事実を否認し,血液鑑定によっても生前か死後かは判定が困難であったので結局死体損壊罪により公判に付せられ,佐藤忠雄検事関与により審理が行われたが,弁護人は船長の行為をもって緊急避難に当たると主張した。しかし裁判所は,「現社会生活ノ文化的秩序維持ノ精神ニ悖ルコト甚シキモノと認ムル」としてこれを排斥し,被告人は心神耗弱の状況にあったと認めて懲役1年に処した。作家の武田泰淳はこの事件を題材として昭和29年「ひかりごけ」を発表している。その中の戯曲は洞窟の場と法廷の場から構成されているが,実際の公判は非公開で行われており,全くの創作である。
戦後の釧路地検と著名事件
終戦直後の昭和21年帯広支部が設置された。翌22年検察庁法の施行により裁判所から分離して新たに釧路地方検察庁が発足し,帯広,網走(以上甲号),北見,根室(以下乙号)の各支部,厚岸,十勝池田,本別,広尾,美幌,斜里,遠軽,標津の8単独区検が設置されたが,昭和63年厚岸,十勝池田,広尾,美幌,斜里の5区検は廃止された。また平成2年から網走支部に代わり北見支部が合議事件を取り扱うようになった。
昭和61年に釧路地裁で再審の上,無罪判決がなされたいわゆる梅田事件は,昭和25年に北見市で発生した強盗殺人・死体遺棄事件で,自治体警察当時の北見市警察署が共犯者の自白に基づいて男性を逮捕したもので,網走支部において共犯者は死刑,男性は無期懲役の判決があり,共犯者は他にも強盗殺人事件を犯していたものであった。
太平洋戦争後,北方領土が失われたため釧路地検の管内は直接旧ソ連と国境を接することとなり,北方海域における密漁事件や密出国・密輸出入事件等の国境検察というべき事件の捜査処理が求められることとなった。昭和41年と翌42年に発生したいわゆる第1と第2の北島丸事件は,国後島領海内の操業行為について漁業法等の適用があるか否かが争われたものであるが,最高裁判所は積極の判断を示した。
平成6年の釧路地検
平成6年4月の管内人口は104万1,721人,平成5年の受理人員は2万4,174人である。現在員は検事9名,副検事12名,検察事務官以下117名の合計138名で,管内には釧路・北見の二方面本部15警察署に加えて根室・釧路両海上保安部があり,112年前に比べてはるかに充実しているが,四国の一倍半という全国一の広い管内面積を抱えていることから,相互の連絡や事件の捜査には依然として困難が多く,生活環境の良好でないところも少なくない。しかし,職員一同は先人の業績を受け継ぎ,創意工夫を懲らして時代に即応した検察の実現に努めている。
(元釧路地方検察庁検事正 在任期間 平成5年12月1日~平成7年4月4日)