目次
- その1 -「真実の発見」-
- その2 -「有罪」/「無罪」とは?-
- その3 -更に「有罪」/「無罪」とは?
- その4 -「有罪」の場合-
- その5 -「合理的な疑い」-
- その6 -「合理的な疑い」とは?-
- その7 -更に「合理的な疑い」とは?-
最終更新日:2015年8月28日
◇裁判員裁判制度についての説明会の席上,多くの方々から,「裁判官でもない素人の自分たちに,被告人が有罪なのか無罪なのか,分かるはずがない。」という意見を伺いました。いよいよ裁判員制度が施行され,「もしも自分が裁判員に選ばれたらどうしよう。被告人が絶対やっていないと言っている場合に,その有罪・無罪を判断することなどとてもできないのではないか。」と,同じ思いでおられる方も少なくないかもしれません。
◇刑事訴訟法は,刑事事件について,「事案の真相を明らかにすること」を目的の一つとして明記しています(第1条)。裁判を通じて,真実が何であったのかを解明することは,とても大切なことであるのは申すまでもありません。「真実の発見!」――そんな大変な任務を果たすことができるだろうか…。皆さんが不安になるのは当然ですし,真剣にかつ誠実に裁判員としての責任を受け止めておられる方ほど,不安・心配は大きいと思います。
◇確かに,真実は一つだけです。すなわち,真実は被告人が罪を「犯した」のか/「犯していない」のか,「黒」か「白」かのいずれかであって,裁判員になったらそのいずれであるかを明らかにしなければならない,と思っておられる方も少なくないのではないでしょうか。
◇しかし,裁判官も裁判員も,事件が起こったときに現場に居て犯行を目撃していたわけではありません。その場面がたまたま明瞭に録画されていてそれが証拠とされている場合などを除き,裁判官にとっても裁判員にとっても,過去に存在した事実を自分自身で直接見聞きすることは不可能です。
そうなると,すべての証拠を調べてみたけれども,被告人が「黒」なのか「白」なのか,どうしても「分からない」,「そのどちらか一方に決め切れない」という事態(いわば「灰色」の状態)が起こることを否定できないはずです。神ならぬ人の身のすることである裁判においては,このような限界があるのは仕方のないことです。これは,裁判員だけでなく,裁判官にとっても同じです。つまり,裁判は,「常に白黒の決着を付ける(付けることができる)」場ではない,というわけです。
◇それでは,この「灰色」の場合,裁判官や裁判員は,どうしたらよいのでしょうか?
◇被告人が罪を「犯した」(=黒)のか/「犯していない」(=白)のか,法廷に提出されたすべての証拠を見聞きしたが,どうしても「分からない」(=灰色)というとき,裁判官・裁判員は「無罪」の判断をしなければならないことが,ルールにより決められています。俗に,「灰色無罪」と言われている場合です。
◇このことからお分かりのとおり,裁判員の皆さんには,裁判官と共に,被告人が「有罪か/無罪か」を判断していただくわけですが,それは,「黒か/白か」の二者択一を迫られるということではなく,「黒か/黒とまでは言えないか」を判断していただくことになるのです。つまり,有罪=「黒」はよいとして,無罪=「白」のみは誤りで,無罪=「黒でない(白の場合と,灰色の場合とがある。)」,というのが正しいわけです。
◇それでは,「白」の場合は当然として,「灰色」の場合にも,無罪の判決をすることが決められているのは,なぜなのでしょうか?
被告人を犯罪者であるとして断罪し刑罰を科するには,間違いがあってはなりません。万一無実の罪で濡れ衣を着せるようなことがあっては大変な不正義であり,許されない人権侵害と言わなければならないでしょう。そのため,“常識に従って判断すれば,被告人が起訴状に書かれている犯罪を犯したことは間違いない”と考えられる場合(「黒」の場合)にだけ,有罪とすることとされているのです。ですから,それ以外の場合(「白」の場合と「灰色」の場合)には,無罪としなければならないことになるわけです。
◇実際の刑事裁判では,被告人が有罪(黒)であることを検察官が証明しなければならないことになっています。被告人やその弁護人の側は,被告人が無実(白)であることを進んで証明する責任はありません。
結局,“検察官が被告人の有罪をちゃんと証明できたかどうか。”――被告人の有罪/無罪はそれで決まることになるわけです。
◇法廷で,検察官は,裁判官と裁判員が,“常識に従って判断すれば,被告人が起訴状に書かれている犯罪を犯したことは間違いない”と考えられるように,必要な証拠を使って証明してゆきます。被告人・弁護人から反論があれば,それに対しても,証拠によってこたえてゆき,法廷で取り調べられたすべての証拠を総合すれば,“検察官の主張(被告人が起訴状に書かれている罪を犯したこと)が間違いない”と判断できることを,裁判官・裁判員にお示しします。
◇ということは,裁判員の皆さんには,この検察官の主張・立証がきちんと果たされているかどうか,それを判断していただくことになるわけです。
それはつまり,検察官の主張・立証に納得できるかどうか,ということです。納得していただけたのなら有罪,納得していただけなかったのなら無罪―裁判員に(実は,裁判官にも)有罪・無罪を判断してもらうというのは,こういうことにほかならないのです。
裁判員になるということは,決して,神様でなければ知ることのできないような唯一絶対の真実を見付け出すことが求められているのではありません。それはプロの裁判官にも不可能なことです。この点はどうか御安心ください。
◇「有罪/無罪を判断する」とは,「被告人が起訴状に書かれている罪を“犯した/犯していない”のどちらなのかを二者択一で決める」ことではなく,「『常識に照らして,被告人が起訴状に書かれている罪を犯したことは間違いない』との検察官の主張・立証が納得できるかどうかを判断する」ことです。
◇それでは,「検察官の言うことに納得できる」,つまり「常識に照らして,被告人が起訴状に書かれている罪を犯したことは間違いないと思える」とは,どのようなときなのだろうか?――こう疑問に思われる方もおられるでしょう。
◇最高裁判所は,裁判の場での有罪の証明は,通常人であれば,誰でも疑いを差し挟まない程度に真実らしいとの確信を得させるものであれば足りる,としています(「元来訴訟上の証明は,自然科学者の用いるような実験に基づくいわゆる論理的証明ではなくして,いわゆる歴史的証明である。論理的証明は『真実』そのものを目標とするに反し,歴史的証明は『真実の高度な蓋然性』をもって満足する。言い換えれば,通常人なら誰でも疑いを差し挟まない程度に真実らしいとの確信を得ることで証明ができたとするものである。だから論理的証明に対しては当時の科学の水準においては反証というものを容れる余地は存在し得ないが,歴史的証明である訴訟上の証明に対しては通常反証の余地が残されている。」…最高裁昭和23年8月5日判決)。
◇最近も,最高裁判所は,同趣旨を判示しました。すなわち,被告人・弁護人が,「検察官が主張・立証しようとしているのとは反対の事実が存在する可能性がある。だから無罪である。」と主張している場合,「刑事裁判における有罪の認定に当たっては,合理的な疑いを差し挟む余地のない程度の立証が必要である。ここに合理的な疑いを差し挟む余地がないというのは,反対事実が存在する疑いを全く残さない場合をいうものではなく,抽象的な可能性としては反対事実が存在するとの疑いをいれる余地があっても,健全な社会常識に照らして,その疑いに合理性がないと一般的に判断される場合には,有罪認定を可能とする趣旨である。」としています(最高裁平成19年10月16日判決)。
◇したがって,検察官の主張に反する事実が存在するという疑いに合理性がある場合(これを「合理的な疑い」と言います。)には,「無罪」ですが,「検察官の主張に反する事実が存在する可能性は完全にゼロだとはいえない」という理由では,「灰色無罪」となるわけではなく,そのような疑いが合理的なものとまでは言えない場合には「有罪」となるわけです。最高裁が指摘しているとおり,刑事裁判における証明については,自然科学の世界における論理的証明とは異なり,抽象的な疑いすら絶対に残さないまでに立証するということは不可能でもあります。有罪認定をすることに対する疑いに合理性がないと一般的に判断されるか否かの判断基準は「健全な社会常識」であり,これを超えて,反対事実が存在する抽象的な可能性をも否定することが求められると考えるのは誤りだということになるのです(最高検察庁平成21年2月「裁判員裁判における検察の基本方針」76頁【注】参照。)(最高検察庁平成21年2月「裁判員裁判における検察の基本方針」76頁【注】参照。)。
◇ 以上を整理してまとめると,次のようなことになります。
反対事実(検察官が主張・立証しようとしているのとは反対の事実/検察官の主張に反する事実)が存在するとの疑い=有罪認定をすることに対する疑い |
健全な社会常識に照らして,その疑いに合理性があると一般的に判断される場合(「合理的な疑い」がある場合) |
無罪(*) |
健全な社会常識に照らして,その疑いに合理性がないと一般的に判断される場合(「合理的な疑い」がない場合) |
有罪(**) |
◇被告人が有罪であることを証明する責任を負っている検察官にとっては,すべての証拠調べが終わった段階で,健全な社会常識に照らして,検察官の主張に反する事実が存在するとの疑いに合理性があると一般的に判断される場合(「合理的な疑い」がある場合)には,「無罪」ということになりますから,検察官は,「合理的な疑い」が残らないように証明する責任を果たさなければなりません。
◇そこで,健全な社会常識に照らしてみたときに,どのような疑いが「合理的な疑い」と一般的に判断されるものなのでしょうか?
◇「検察官の主張に反する事実が存在するとの疑い,すなわち,有罪認定をすることに対する疑い」は,通常,「自分は起訴状に書かれている罪を犯していない」という被告人の弁解(否認)から生じて来ますが,その弁解の内容と現実に起きた客観的な事実との間に,“常識的にみて,いかにもつじつまの合わないところがある”ような場合には,被告人のその弁解は不自然・不合理であって信用できないと判断され,その結果,検察官の主張に反する事実が存在するとの疑いも,健全な社会常識に照らしてみたときに,合理性がないと一般的に判断されることになります。
◇また,そのほかにも,健全な社会常識に照らせば,検察官の主張に反する事実が存在するとの疑いに合理性がないと一般的に判断される場合として,最高裁判所は,その疑いが「抽象的な可能性」にすぎない場合を挙げています(最高裁平成19年10月16日判決)。
つまり,「通常人なら誰でも疑いを差し挟まない程度に真実らしいとの確信を得る」ことができた場合には有罪なのであり(最高裁昭和23年8月5日判決),その場合に,「全くあり得ないことではない」という論理上の可能性や推測に基づく疑いが残っても,合理的な疑いを差し挟む余地のない程度の立証が果たされていることに変わりはなく,有罪を認定することはなお可能である,とされているのです。
◇裁判員裁判の法廷で,裁判員となられた方々に私たち検察官の主張や立証を納得していただけるかどうかが,これからの我が国の刑事司法の行く末を左右することになります。
私どもは,これまで以上に「国民の視点」を意識し,裁判員の皆さんの胸の中に「合理的な疑い」が残ることのないよう,分かりやすく的確な主張・立証に努めてまいります。
以上
検事正が答える裁判員裁判FAQ
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